Scribble at 2025-05-27 13:59:43 Last modified: 2025-05-30 17:16:45
This is not about defending the status quo. Our intellectual property system certainly needs reform to better balance individual rights with collective access, to limit corporate overreach, and to establish clear frameworks for emerging technologies. But elimination is not reform—it's abdication.
イーロン・マスクの X に対抗して BlueSky を立ち上げたジャック・ドーシーという人物は、これまでアメリカのテック企業について殆ど実情も知らないインチキなリベラルの人々からマスクに対抗する救世主のように言われてきたのだけれど、実際にはアメリカ西海岸での覇権争いをやっている同じ穴の狢にすぎないということが、こういう事例でも分かると思う。同じく、サム・アルトマンを「悪辣な取締役会によって追い出された悲劇の主人公」として描いていた日本の低レベルなメディアやブログなんてのは、要するに英語が読めないどころかテック系のコミュニティ・サイトで色々な見方や解釈が飛び交っていたことすら知らない、はっきり言えば情弱と言ってもいい。これは MarkupDancing でも書いていることだが、中高校生の諸君は英語をよく勉強して、日本国内だけで飯を食っている報道・出版・マスコミの無知無教養な人々に騙されないよう、できるだけ早く英語のメディアを利用するように努力したほうがいい。
ということで、前置きはこれくらいにしておくと、僕は著作権法については上のブログ記事と同じ意見だ。もちろん、上の記事を書いた人物は日本人ではないから、細かい点で日本の著作権法が最善でもなければベターですら無いという理由が僕とは違うだろうけど、原則として著作物という財産が法的に保護されるべきだという点では同じだろう。僕は、著作権の保護期間はせいぜい10年、長くても著作者本人が死ぬまでのあいだとするのが妥当だと思うが(なので、クリエイターを支えた家族の苦労をねぎらうために著作権の保護期間を延長するといった、漫画か冗談みたいな理由で保護期間を延長しようとする連中など問題外だ)、それは枝葉の話にすぎない。ともあれ、そういうわけで、僕はジャック・ドーシーの議論を生成 AI のユーザとしてすら支持しない。また、上の記事の著者が "We need not choose between absolute ownership and no ownership at all."(わたしたちは、絶対の所有権か所有権の放棄かを選ぶ必要などない)と述べている点にも賛成だ。オンラインからスクレイピングしたデータを勝手にいくらでも使えるなどと豪語するべきでもなければ、あらゆる利用に対価を支払うべきだと言うべきでもないのであって、それは少なくとも日本の著作権法がクリエイターの保護だけを目的としている法律なのではなく、利用者の権利も保護する法令であるという立法趣旨が正当だと思う限り、許容されてしかるべき態度だろう。たとえば、「歌や曲に対価を支払え」って言ってる歌手や作曲家は、川の土手で鼻歌を歌ったり子守唄を歌っている人達からも印税を徴収したいのかな。もちろん、これは反語だけれど、「そう。本当に徴収したい」って言う人がいてもいい(有料での演奏でなければ徴収しないだろうけど、その法律を変えたいと思う人がいてもいい)。僕は、音楽業界がそういう人たちばかりになったら、音楽業界は自滅すると思うし、街中で誰も歌や曲を流さず、鼻歌も歌わなくなった世の中なんて、左翼にとっては理想郷と言うべき権利の保護が完全に達成された状況なんだろうけど、僕には SF 的な専制国家の情景にしか見えない)。
では、僕がいま利用している Stable Diffusion のようなモデル・データの作成において侵害されたとされる著作権についてはどうか。de minimis というのが、いまのところ僕の解釈だ。もちろん、画像から読み取った描画方法やスタイルについては、そもそも著作権などないというのが法令の正確な意味である。